オーディオの言葉

何もしないのに電源を入れるたびに音が違うのは何故だろう。何故だろう。

一応言語と哲学を仕事にしてるので、概念規定の曖昧な言葉を使うことにとても抵抗がある。特に自らの主観を表現する語彙については自分の持つそれらがとても貧しいことを自覚しているので極力使わないようにしている。この日記モドキでも、自分の得た主観として「低音が出る」とか「広がりがある」程度のことはなんとか言及するけれども、「切れのある低音」だの「どこまでも伸びる高音」だのになるともうダメだ。つまりオーディオ評論的ヴォキャブラリーを受け付けないのである。
主観は定量化できない。人間は自らが認識できるようにしか、外界からの刺激を認識することができない。「客観的」とされる測定にしても、ある条件下における事物のある側面を切り出しているに過ぎないし、観測する人間が把握できる範囲での値が示されるだけである。だから測定が無意味だとするのはあまりに論理の飛躍で(球派にはそれに近い態度をとる人がしばしばいる)、同時に測定される範囲で「完全」な特性を示す機械が聴感上「完全」な音を出すわけでもない。ノイズレヴェルとか周波数特性といった数字は、ある程度音質を担保するけれども*1、いくつかのオーディオメーカーが声高に主張する「原音」「正しい音」は、オーディオ機器を通じて人間に受け取られるものが人間の聴感というごく曖昧なものを経由している以上存在し得ない。繰返しというかトートロジーだが、それらはそう主張する人が正しいと感じているものに過ぎないのである。
だからオーディオを趣味にするということは、聴感上の快楽を追求する行為でしかない。そもそもエンジニアリングは科学ではなくて人間の利便性や快楽に対する欲求をかなえる手段としての経験則の集積なのだから、オーディオ機器の宣伝にまぶされる科学風味は、マーケティング上の言葉でしかないし、多くの場合疑似科学の域を出ない。
話を「言葉」に戻すならば、「切れのあるタイトな低音」という場合、その「切れ」だの「タイトな」といった表現が指し示す外延の範囲がまったく曖昧で、それがオレにはとても気持ち悪い。まして「色っぽいヴォーカル」なんていわれると死にたくなる。低音の応答性を示す指標として Damping Factor があるが、半導体のアンプと真空管のアンプではその数値が下手すると数千倍のオーダーで異なる。では真空管のアンプは聴感上低音の応答性が半導体アンプの数千分の一かというとそういうわけでもない。そんなものは数値化できない。であれば「タイトな低音」とは、その音を聴いた人が「タイトだな」と感じたというだけになってしまう。少なくともオレにとってそういう言葉は「価値*2」を持たないし、オレがそういう言葉を使ったとしても、それを読んだ人にとって「価値」があるとも思えない。文学的レトリックを駆使する技術も持たないから、オーディオを無理矢理芸術や実存に昇華させる五味某のような力技も使えない。あれは「芸」であって、素人が真似すると痛々しいだけだし、心から信じているとすれば知性の貧しさを自ら吐露していることになる。
てなわけで、オレのこの日記モドキは読んで面白いものではないと思う。オレには芸もないし、人様のためになるような知識や経験もない。単に自分の理解の及ぶ範囲で悪戦苦闘している記録を投げ出しているだけである。あんまり読んでる人もいないようだけれど、時々自己満足でこういうことが書きたくなるだけのことである。

*1:たとえば残留ノイズが 10mV もあるとか、プラマイ 3dB のレヴェルで 150Hz〜10000Hz しか出ないなんてアンプは「音質」以前に語るべきものを持たない。所謂ヴィンテージとされる機器にはその手のものがあるが、それらを愛でるのはそれらが孕む物語を愛でているのである。

*2:もちろん言語学的用法ではなく、日常的な意味での、である。